【プロフィール・経歴】
・1984年3月 東京大学 理学部 天文学科 卒業
・1989年3月 東京大学大学院 理学系研究科 博士課程 修了
・1989年4月~1991年3月 日本学術進興会 特別研究員
・1991年4月~1998年3月 郵政省通信総合研究所 主任研究官
・1996年12月~1997年12月 フランス・コートダジュール天文台 科学技術庁在外研究員
・1998年4月~2003年9月 宇宙科学研究所 助教授
・2003年10月~現在 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所 准教授
【プロフィール・経歴】
・1984年3月 東京大学 理学部 天文学科 卒業
・1989年3月 東京大学大学院 理学系研究科 博士課程 修了
・1989年4月~1991年3月 日本学術進興会 特別研究員
・1991年4月~1998年3月 郵政省通信総合研究所 主任研究官
・1996年12月~1997年12月 フランス・コートダジュール天文台 科学技術庁在外研究員
・1998年4月~2003年9月 宇宙科学研究所 助教授
・2003年10月~現在 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所 准教授
2025.1.7
2025.1.7
■『文武両道』の少年時代
■『文武両道』の少年時代
左から インタビュアー寺薗編集長、吉川准教授(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学研究所にて)
左から インタビュアー寺薗編集長、吉川准教授(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学研究所にて)
--小さい頃に宇宙への道を志した理由やエピソードなどを教えて下さい。
宇宙を好きになったのは、小学校高学年の頃でしょうか。親に望遠鏡を買ってもらったことがきっかけでした。私は栃木県栃木市の出身なのですが、夜は暗くて、星空がきれいにみえるところです。望遠鏡で毎晩星を眺めていましたね。理科は好きでしたね。小さい頃は虫も好きで、昆虫採集もよくやっていました。
そんな中、星にも興味が芽生えたのです。
--となると、中学・高校は天文部に所属されて…?
いえ、そうではないのです。中学・高校では運動部に所属していました。中学ではバレーボール部(ポジションはセッター)、高校では山岳部に入っていました。
--え! それは意外です。吉川先生というとひたすら学究の道を進んでいらしたかと思っていたのですが…
高校は栃木高校でしたが、ここの山岳部はすごく強くて、インターハイの全国大会にも出たことがあります。山岳部は体力も使います。階段を登り降りしたり、走り込みをしたりします。日光で冬山訓練をしたこともあります。本当に体が鍛えられました。このとき養った体力は、後に宇宙の仕事に役立つことになります。
--た、体力ですか! …それは後ほど伺うこととしましょう。
■『文理両道』の大学時代
--大学は天文の道に進まれたのでしょうか?
はい。大学は物理を目指しました。東大では「理I」(りいち)と呼ばれるところですね。
大学2年のとき、目指す学科に振り分けられる「進振り」というのがあります。ここで物理か天文か、どちらかを選ぶことにしたのです。
しかし、天文学科の定員は当時5〜6でした。なので、成績のいい人が集まってしまうと入るのがむずかしいことになります。
ただし、最終的に志望学科を変える人がいるんですね。私のときもそういう人がいたのだと思いますが、無事天文学科に入れました。
--大学のときにはその他にどんなことを学んだのでしょうか?
大学では理科系の講義の他にも、民俗学や文化人類学の講義を取ったりしていましたね。実は私、大阪の国立民族学博物館ができたときからの友の会会員でもあるんですよ。
--吉川先生、お付き合いが長いですが、実は私の知らないことばかりです。
さて、そこから軌道計算の研究者となっていくわけですが、その経緯をぜひ教えて下さい。
私は1984年に修士課程に入り、1989年に博士号を取得しました。専門分野での研究は修士課程(大学院)に入ってからですね。当時は宇宙論が花形でした。そして、日本では野辺山(国立天文台野辺山宇宙観測所)がいろいろな成果をあげていた頃でした。ですから、「遠く」を調べることがメジャーだったのです。
でも私はそれとは違って、「いちばん近いところ」、つまり小惑星に目を向けたのです。小惑星の軌道計算の研究を行いました。私は惑星が小惑星軌道に与える影響、特に「共鳴現象」の研究をしていました。当時は小惑星が5,000個もあって、かなり計算が大変でした。
--「も」?
当時みつかっていた小惑星は5,000個くらいでした。しかし観測技術が飛躍的に進歩して、現在(2025年3月)では143万個を超えています。でも、当時の計算能力だと、5,000個の小惑星の軌道計算も大変で、共鳴に関係した一部の小惑星の計算をしていました。
--小さい頃に宇宙への道を志した理由やエピソードなどを教えて下さい。
宇宙を好きになったのは、小学校高学年の頃でしょうか。親に望遠鏡を買ってもらったことがきっかけでした。私は栃木県栃木市の出身なのですが、夜は暗くて、星空がきれいにみえるところです。望遠鏡で毎晩星を眺めていましたね。理科は好きでしたね。小さい頃は虫も好きで、昆虫採集もよくやっていました。
そんな中、星にも興味が芽生えたのです。
--となると、中学・高校は天文部に所属されて…?
いえ、そうではないのです。中学・高校では運動部に所属していました。中学ではバレーボール部(ポジションはセッター)、高校では山岳部に入っていました。
--え! それは意外です。吉川先生というとひたすら学究の道を進んでいらしたかと思っていたのですが…
高校は栃木高校でしたが、ここの山岳部はすごく強くて、インターハイの全国大会にも出たことがあります。山岳部は体力も使います。階段を登り降りしたり、走り込みをしたりします。日光で冬山訓練をしたこともあります。本当に体が鍛えられました。このとき養った体力は、後に宇宙の仕事に役立つことになります。
--た、体力ですか! …それは後ほど伺うこととしましょう。
■『文理両道』の大学時代
--大学は天文の道に進まれたのでしょうか?
はい。大学は物理を目指しました。東大では「理I」(りいち)と呼ばれるところですね。
大学2年のとき、目指す学科に振り分けられる「進振り」というのがあります。ここで物理か天文か、どちらかを選ぶことにしたのです。
しかし、天文学科の定員は当時5〜6でした。なので、成績のいい人が集まってしまうと入るのがむずかしいことになります。
ただし、最終的に志望学科を変える人がいるんですね。私のときもそういう人がいたのだと思いますが、無事天文学科に入れました。
--大学のときにはその他にどんなことを学んだのでしょうか?
大学では理科系の講義の他にも、民俗学や文化人類学の講義を取ったりしていましたね。実は私、大阪の国立民族学博物館ができたときからの友の会会員でもあるんですよ。
--吉川先生、お付き合いが長いですが、実は私の知らないことばかりです。
さて、そこから軌道計算の研究者となっていくわけですが、その経緯をぜひ教えて下さい。
私は1984年に修士課程に入り、1989年に博士号を取得しました。専門分野での研究は修士課程(大学院)に入ってからですね。当時は宇宙論が花形でした。そして、日本では野辺山(国立天文台野辺山宇宙観測所)がいろいろな成果をあげていた頃でした。ですから、「遠く」を調べることがメジャーだったのです。
でも私はそれとは違って、「いちばん近いところ」、つまり小惑星に目を向けたのです。小惑星の軌道計算の研究を行いました。私は惑星が小惑星軌道に与える影響、特に「共鳴現象」の研究をしていました。当時は小惑星が5,000個もあって、かなり計算が大変でした。
--「も」?
当時みつかっていた小惑星は5,000個くらいでした。しかし観測技術が飛躍的に進歩して、現在(2025年3月)では143万個を超えています。でも、当時の計算能力だと、5,000個の小惑星の軌道計算も大変で、共鳴に関係した一部の小惑星の計算をしていました。
吉川准教授(JAXA相模原キャンパス)
吉川准教授(JAXA相模原キャンパス)
--小惑星については、80年代当時に比べて研究が飛躍的に進みましたね…。そんな中、吉川先生は新たな進路へ進まれる。
はい。1991年、通信総合研究所(現在の情報通信研究機構)に入りました。通信総合研究所は茨城県鹿嶋市に小さなセンターを持っていますが、そこにある研究室で人工衛星の軌道計算を行う研究者の公募が出ていたんですね。それで、その研究室へ応募したというわけです。
この研究室では、現在打ち上げられている準天頂衛星「みちびき」の8の字軌道の研究もしていました。日本上空から常に衛星がみえるように、地上からみると数字の8の字を描くような軌道の最初のアイディアを出したのはこの研究室にいた私の同僚だった研究者でした。私自身、半分は人工衛星と宇宙デブリの軌道計算でした。残り半分で小惑星の軌道研究をしていました。
そして、1998年に宇宙研へと異動します。
--いよいよ月・惑星探査の世界ですね。
■着任、その日に早速打ち合わせ
当時、小惑星探査機「はやぶさ」(まだMUSES-Cと呼ばれていた)のミッションが本格化してきていました。で、着任したその当日、4月1日に早速ジェット推進研究所(JPL。NASAとカリフォルニア工科大学が所管する、アメリカの月・惑星探査の実施機関)との会議があったりしました。私は探査機の軌道決定グループに入りました。軌道決定とは別に、軌道を設計する人たちもいます。
--小惑星については、80年代当時に比べて研究が飛躍的に進みましたね…。そんな中、吉川先生は新たな進路へ進まれる。
はい。1991年、通信総合研究所(現在の情報通信研究機構)に入りました。通信総合研究所は茨城県鹿嶋市に小さなセンターを持っていますが、そこにある研究室で人工衛星の軌道計算を行う研究者の公募が出ていたんですね。それで、その研究室へ応募したというわけです。
この研究室では、現在打ち上げられている準天頂衛星「みちびき」の8の字軌道の研究もしていました。日本上空から常に衛星がみえるように、地上からみると数字の8の字を描くような軌道の最初のアイディアを出したのはこの研究室にいた私の同僚だった研究者でした。私自身、半分は人工衛星と宇宙デブリの軌道計算でした。残り半分で小惑星の軌道研究をしていました。
そして、1998年に宇宙研へと異動します。
--いよいよ月・惑星探査の世界ですね。
■着任、その日に早速打ち合わせ
当時、小惑星探査機「はやぶさ」(まだMUSES-Cと呼ばれていた)のミッションが本格化してきていました。で、着任したその当日、4月1日に早速ジェット推進研究所(JPL。NASAとカリフォルニア工科大学が所管する、アメリカの月・惑星探査の実施機関)との会議があったりしました。私は探査機の軌道決定グループに入りました。軌道決定とは別に、軌道を設計する人たちもいます。
左から 宇宙科学研究所 科学推進部 広報担当 那須様、吉川准教授、インタビュアー寺薗編集長(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学探査交流棟にて)
左から 宇宙科学研究所 科学推進部 広報担当 那須様、吉川准教授、インタビュアー寺薗編集長(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学探査交流棟にて)
--あ、吉川先生は軌道決定のグループだったのですね?
そうです。軌道を設計する方には川口先生(川口淳一郎。「はやぶさ」プロジェクトマネージャー)をはじめとして津田先生(津田雄一。「はやぶさ2」プロジェクトマネージャー)などがいらっしゃいました。軌道決定のグループは私を含めて3名でした。
--いよいよ惑星探査機の軌道計算ですね。
探査機の軌道決定の作業は打ち上がったあとが大変でした。日々の作業はメーカーさんが行うのですが、その解析が妥当かどうかを判断するのは我々です。特に大変だったのは、火星探査機「のぞみ」でした。エンジントラブルで火星到着が延びたのですが、さらに電波での通信も困難を極め、探査機にYESかNOで応答をさせることで状態を突き止めるということも行いました。最後の最後、火星周回軌道に投入できなかった瞬間も見届けていました。
■「のぞみ」の悲劇、そして「はやぶさ」へ
--のぞみ、本当に残念でした。そして、「はやぶさ」も本当にいろいろありました。
「はやぶさ」のイオンエンジンによる惑星探査(惑星間空間の飛行)は世界で二番目でした。実はイオンエンジンを使うと、軌道決定がめちゃくちゃ難しいのです。化学推進(スラスターを使う推進)なら、ガスが噴射される短い時間に軌道が変わるので計算しやすいのです。これに対してイオンエンジンは連続的にじわじわと軌道が変化するので計算が難しい。1ヶ月に1回、3日間イオンエンジンの噴射を止めてもらい、その間に軌道を推定していました。
--通信途絶もありましたね
通信が途絶えたあとの「はやぶさ」の位置を知るためには、データが途絶える前の軌道からの推定に、誤差範囲を加えて計算をしていました。その誤差を含めた範囲にアンテナを向けて「はやぶさ」との通信を試みるのですが、なかなか電波が来ない。かなり時間が経ってしまうと誤差範囲が大きくなって、アンテナを振って探すことになります。これは大変です。そこで、臼田(JAXA臼田宇宙空間観測所)のアンテナのビームの中に誤差範囲が入るかどうかのチェックをずっと行っていました。
川口先生は1年間はこのやり方で大丈夫だと予想していました。結果的に46日後に電波は戻ってきましたが、当初は電波は途切れ途切れでした。
--さらに「はやぶさ2」では技術も進化する。
「はやぶさ2」では、高精度な軌道決定ができるDDOR (Delta Differential One-Way Range)という技術を使いました。これは、天文学で星の位置を正確に推定するために使われるVLBI(超長基線電波干渉法)と基本的には同じ技術で、2つのアンテナで探査機とクエーサーの電波を受信して位置を推定する方法です。この手法は日本では「はやぶさ2」ではじめて本格的に使われました。
■小惑星が好きだ、重要だ
--吉川先生の中で、こういう探査を進める原動力というのはどのようなものなのでしょうか?
小惑星が好きだ、重要だ、ということでしょうか。小惑星は太陽系ができた頃の情報を持っています。そして、地球の原材料に近いものとも考えられます。小惑星を調べれば、太陽系の歴史、生命の起源につながる。特に、地球接近小惑星は、火星に比べれば近いですから、将来人間が行くこともできるでしょう。そして、資源として利用できる。さらに地球接近小惑星は、将来地球にぶつかるかも知れないという意味でも重要です。
--ここでプラネタリーディフェンスが出てきました。プラネタリーディフェンスとは、天体衝突による災害を未然に防ぐ国際的な宇宙防災活動です。「惑星防衛」や「地球防衛」とも呼ばれます。このお話を伺っていきましょう。
--あ、吉川先生は軌道決定のグループだったのですね?
そうです。軌道を設計する方には川口先生(川口淳一郎。「はやぶさ」プロジェクトマネージャー)をはじめとして津田先生(津田雄一。「はやぶさ2」プロジェクトマネージャー)などがいらっしゃいました。軌道決定のグループは私を含めて3名でした。
--いよいよ惑星探査機の軌道計算ですね。
探査機の軌道決定の作業は打ち上がったあとが大変でした。日々の作業はメーカーさんが行うのですが、その解析が妥当かどうかを判断するのは我々です。特に大変だったのは、火星探査機「のぞみ」でした。エンジントラブルで火星到着が延びたのですが、さらに電波での通信も困難を極め、探査機にYESかNOで応答をさせることで状態を突き止めるということも行いました。最後の最後、火星周回軌道に投入できなかった瞬間も見届けていました。
■「のぞみ」の悲劇、そして「はやぶさ」へ
--のぞみ、本当に残念でした。そして、「はやぶさ」も本当にいろいろありました。
「はやぶさ」のイオンエンジンによる惑星探査(惑星間空間の飛行)は世界で二番目でした。実はイオンエンジンを使うと、軌道決定がめちゃくちゃ難しいのです。化学推進(スラスターを使う推進)なら、ガスが噴射される短い時間に軌道が変わるので計算しやすいのです。これに対してイオンエンジンは連続的にじわじわと軌道が変化するので計算が難しい。1ヶ月に1回、3日間イオンエンジンの噴射を止めてもらい、その間に軌道を推定していました。
--通信途絶もありましたね
通信が途絶えたあとの「はやぶさ」の位置を知るためには、データが途絶える前の軌道からの推定に、誤差範囲を加えて計算をしていました。その誤差を含めた範囲にアンテナを向けて「はやぶさ」との通信を試みるのですが、なかなか電波が来ない。かなり時間が経ってしまうと誤差範囲が大きくなって、アンテナを振って探すことになります。これは大変です。そこで、臼田(JAXA臼田宇宙空間観測所)のアンテナのビームの中に誤差範囲が入るかどうかのチェックをずっと行っていました。
川口先生は1年間はこのやり方で大丈夫だと予想していました。結果的に46日後に電波は戻ってきましたが、当初は電波は途切れ途切れでした。
--さらに「はやぶさ2」では技術も進化する。
「はやぶさ2」では、高精度な軌道決定ができるDDOR (Delta Differential One-Way Range)という技術を使いました。これは、天文学で星の位置を正確に推定するために使われるVLBI(超長基線電波干渉法)と基本的には同じ技術で、2つのアンテナで探査機とクエーサーの電波を受信して位置を推定する方法です。この手法は日本では「はやぶさ2」ではじめて本格的に使われました。
■小惑星が好きだ、重要だ
--吉川先生の中で、こういう探査を進める原動力というのはどのようなものなのでしょうか?
小惑星が好きだ、重要だ、ということでしょうか。小惑星は太陽系ができた頃の情報を持っています。そして、地球の原材料に近いものとも考えられます。小惑星を調べれば、太陽系の歴史、生命の起源につながる。特に、地球接近小惑星は、火星に比べれば近いですから、将来人間が行くこともできるでしょう。そして、資源として利用できる。さらに地球接近小惑星は、将来地球にぶつかるかも知れないという意味でも重要です。
--ここでプラネタリーディフェンスが出てきました。プラネタリーディフェンスとは、天体衝突による災害を未然に防ぐ国際的な宇宙防災活動です。「惑星防衛」や「地球防衛」とも呼ばれます。このお話を伺っていきましょう。
左から 吉川准教授、インタビュアー寺薗編集長(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学探査交流棟にて)
左から 吉川准教授、インタビュアー寺薗編集長(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学探査交流棟にて)
■地球を護る「プラネタリーディフェンス」
--プラネタリーディフェンス、吉川先生はこの分野で日本のトップでいらっしゃいますね。
もともとこのプラネタリーディフェンス(当時はスペースガードと呼ばれていました)の世界に足を踏み入れたのは、磯部琇三先生(国立天文台教授)の影響が大きいですね。彼は小惑星が専門ではかったのですが、どういうわけか小惑星の地球衝突問題に強い関心を持たれました。
折も折、1994年にシューメーカー・レビー第9彗星の木星衝突というできごとが起こり、「天体衝突」が一気に注目を浴びたのです。磯部先生が中心となって、私も設立メンバーとなって、1996年に日本スペースガード協会が設立されました。
--はい。私も創設時からのメンバーです。そういえば、最近スペースガードといういい方はあまりしないですね。
スペースガードですと「宇宙をガードする」というふうに聞こえてしまう、ということもあるのかも知れません。最近はプラネタリーディフェンスが一般的になってきていますね。
--吉川先生はJAXAのプラネタリーディフェンスチーム長でもありますね。
現在グループには30人ほどが所属していて、JAXAとしてプラネタリーディフェンスについて何をすべきかという議論の整理を行っています。グループは組織横断的なチームで、研究者以外に法律論や国際対応の人も入っています。
また、2029年に、地球接近小惑星「アポフィス」が地球に約3万キロにまで接近するという一大イベントがあります。地球への最接近が2029年の4月13日…金曜日です。
--よりにもよって13日の金曜日ですか。いずれにしても、これはたいへん大きな出来事ですね。
この3万キロという距離は、静止衛星の軌道よりも近いところです。アポフィスのサイズは400メートルほど。このサイズのものがこんなに地球の近くを通過するのは観測史上はじめてのことです。ぶつかる心配はないのですが。そこで、この地球接近に向けた国際的な動きも激しくなっています。ヨーロッパが探査機を計画していて、そこにJAXAが協力する議論も進めています。
■宇宙の面白さを一人でも多くの人に伝える
--吉川先生はご講演やイベントを通じて、多くの方に宇宙や宇宙開発、宇宙探査の魅力を伝えていらっしゃいます。講演やイベントを通して伝えたい思いはどのようなものですか?
そうですね。宇宙は面白いです。まだ知られていないことも数多くある。小惑星ですら、わからないことだらけです。調べること、面白いはまだまだたくさんある。このような宇宙の面白さをこれからも多くの人に伝えていきたいですね。
--これから成し遂げたいと思っていること、目標などを教えて下さい。
そうですね…。私自身、そろそろ定年を視野に入れる年になってきています。
--え!定年ですか! なんか、ずっと一緒に働いていると全く感じませんでしたが…
でもそうなんですよ。直近ではやはりプラネタリーディフェンスでしょうか。この分野で何をすべきかをまずしっかりと整理して実行していきたいですね。
現在みつかっている小惑星は140万個を超えています。私が研究の道に入った頃とは格段に異なります。できればまた、小惑星の軌道計算の研究に戻ってみたいですね。こういう膨大な小惑星の軌道計算にAIなどの最新技術を投入してみるのも面白いかも知れませんね。
■宇宙研究に重要なのは…?
--宇宙に関心を持っている方、宇宙の研究をしたい若い人などに対し、メッセージをお願いします。
宇宙には、未知の世界が広がっています。私たちが知っていることはまだ、ほんのわずかしかありません。
研究者になるためには、自分が好きだと思うことをぜひ、伸ばしていって下さい。そしてなるべく広い視野を持つことも重要だと思います。あと、体力も重要ですね。
--体力?
そうです。体力です。初代「はやぶさ」の運用ですが、特にクリティカルな運用の時は寝ずにやりました。研究でもこういうハードな日々を送ることはたくさんあります。こういうときに体力が重要になってくるのです。研究でも、あるときガッと力を出すことが必要になります。瞬発力ですね。それと並行して、長期にわたって頑張ることができる持久力も必要です。両方を持っておくことが研究でも必要です。
--「はやぶさ」の運用は本当に体力勝負でしたね…。吉川先生とも何度も徹夜をしましたが、そこで役立ったのは中学・高校時代に培われた体力だったのですね。
本日はありがとうございました。
■地球を護る「プラネタリーディフェンス」
--プラネタリーディフェンス、吉川先生はこの分野で日本のトップでいらっしゃいますね。
もともとこのプラネタリーディフェンス(当時はスペースガードと呼ばれていました)の世界に足を踏み入れたのは、磯部琇三先生(国立天文台教授)の影響が大きいですね。彼は小惑星が専門ではかったのですが、どういうわけか小惑星の地球衝突問題に強い関心を持たれました。
折も折、1994年にシューメーカー・レビー第9彗星の木星衝突というできごとが起こり、「天体衝突」が一気に注目を浴びたのです。磯部先生が中心となって、私も設立メンバーとなって、1996年に日本スペースガード協会が設立されました。
--はい。私も創設時からのメンバーです。そういえば、最近スペースガードといういい方はあまりしないですね。
スペースガードですと「宇宙をガードする」というふうに聞こえてしまう、ということもあるのかも知れません。最近はプラネタリーディフェンスが一般的になってきていますね。
--吉川先生はJAXAのプラネタリーディフェンスチーム長でもありますね。
現在グループには30人ほどが所属していて、JAXAとしてプラネタリーディフェンスについて何をすべきかという議論の整理を行っています。グループは組織横断的なチームで、研究者以外に法律論や国際対応の人も入っています。
また、2029年に、地球接近小惑星「アポフィス」が地球に約3万キロにまで接近するという一大イベントがあります。地球への最接近が2029年の4月13日…金曜日です。
--よりにもよって13日の金曜日ですか。いずれにしても、これはたいへん大きな出来事ですね。
この3万キロという距離は、静止衛星の軌道よりも近いところです。アポフィスのサイズは400メートルほど。このサイズのものがこんなに地球の近くを通過するのは観測史上はじめてのことです。ぶつかる心配はないのですが。そこで、この地球接近に向けた国際的な動きも激しくなっています。ヨーロッパが探査機を計画していて、そこにJAXAが協力する議論も進めています。
■宇宙の面白さを一人でも多くの人に伝える
--吉川先生はご講演やイベントを通じて、多くの方に宇宙や宇宙開発、宇宙探査の魅力を伝えていらっしゃいます。講演やイベントを通して伝えたい思いはどのようなものですか?
そうですね。宇宙は面白いです。まだ知られていないことも数多くある。小惑星ですら、わからないことだらけです。調べること、面白いはまだまだたくさんある。このような宇宙の面白さをこれからも多くの人に伝えていきたいですね。
--これから成し遂げたいと思っていること、目標などを教えて下さい。
そうですね…。私自身、そろそろ定年を視野に入れる年になってきています。
--え!定年ですか! なんか、ずっと一緒に働いていると全く感じませんでしたが…
でもそうなんですよ。直近ではやはりプラネタリーディフェンスでしょうか。この分野で何をすべきかをまずしっかりと整理して実行していきたいですね。
現在みつかっている小惑星は140万個を超えています。私が研究の道に入った頃とは格段に異なります。できればまた、小惑星の軌道計算の研究に戻ってみたいですね。こういう膨大な小惑星の軌道計算にAIなどの最新技術を投入してみるのも面白いかも知れませんね。
■宇宙研究に重要なのは…?
--宇宙に関心を持っている方、宇宙の研究をしたい若い人などに対し、メッセージをお願いします。
宇宙には、未知の世界が広がっています。私たちが知っていることはまだ、ほんのわずかしかありません。
研究者になるためには、自分が好きだと思うことをぜひ、伸ばしていって下さい。そしてなるべく広い視野を持つことも重要だと思います。あと、体力も重要ですね。
--体力?
そうです。体力です。初代「はやぶさ」の運用ですが、特にクリティカルな運用の時は寝ずにやりました。研究でもこういうハードな日々を送ることはたくさんあります。こういうときに体力が重要になってくるのです。研究でも、あるときガッと力を出すことが必要になります。瞬発力ですね。それと並行して、長期にわたって頑張ることができる持久力も必要です。両方を持っておくことが研究でも必要です。
--「はやぶさ」の運用は本当に体力勝負でしたね…。吉川先生とも何度も徹夜をしましたが、そこで役立ったのは中学・高校時代に培われた体力だったのですね。
本日はありがとうございました。
左から 吉川准教授、インタビュアー寺薗編集長(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学研究所にて)
左から 吉川准教授、インタビュアー寺薗編集長(JAXA相模原キャンパス 宇宙科学研究所にて)
<インタビューを終えて>
吉川先生とのお付き合いはもう30年近くになるでしょうか。私が研究者としての道を走り始めて、最初にお会いした(といいますか、一緒に研究をし始めた)のが吉川先生でした。その穏やかな話しぶりの中に、誰にも負けない強い意志が垣間見える、本当に魅力的な方です。そして気がつけば30年。小惑星の科学を中心に、本当にこのインタビューに書ききれないくらい数限りないエピソードを一緒に抱えてここまで来ました。でもまだ、知らないことがありました。それにしても、体力が重要か…これが私にはないんだよなぁ…
<インタビューを終えて>
吉川先生とのお付き合いはもう30年近くになるでしょうか。私が研究者としての道を走り始めて、最初にお会いした(といいますか、一緒に研究をし始めた)のが吉川先生でした。その穏やかな話しぶりの中に、誰にも負けない強い意志が垣間見える、本当に魅力的な方です。そして気がつけば30年。小惑星の科学を中心に、本当にこのインタビューに書ききれないくらい数限りないエピソードを一緒に抱えてここまで来ました。でもまだ、知らないことがありました。それにしても、体力が重要か…これが私にはないんだよなぁ…